抑圧された怒りに気づく

皆さん、こんにちは。
心理カウンセラーのNaoです。

皆さんは、ある時自分でも驚く位に気持ちが落ち込み、その状態から抜け出せなかったり
身体の怠さや痛みで思うように動かせず、戸惑った経験はありませんか?

日々の生活に追われている内に、
自分自身の声を聴けていなかったり
身体の状態を観察する余裕がなくなった時

気付いた時には心身共に疲弊し、場合によっては「うつ症状」が表れることがあります。

鬱に対する解釈は人それぞれだと思いますし
そのような症状が表れると、自分自身を責めてしまう人も少なくありませんが

私は、うつの原因はこころの弱さではないと思っています。

では、何故そのような症状が表れるのかというと
それは心の奥底で「怒り」を抑圧し続けているからではないでしょうか。

例えば、
Aさんが、ある人から心無い言葉を言われる状況が続いた時
その対応にいくつかの選択肢が生まれますね。

1つ目は、その言葉に対して不快感情を持った事を伝える。または、自分の意見を率直に話す。

2つ目は、これ以上自分の心が傷つかないように、不快感情を抑えて笑って誤魔化す。

皆さんは、Aさんの立場に置かれた時
どちらを選択することが多いでしょうか?

私は、ほとんどの場合において、2つ目の対応を選択することによって
長い間、無意識に自分の心を守ってきました。

ですが実際には、心に生じた不快感情は残ったままで、それは怒りとして蓄積されていきます。

「怒り」が適切に扱われないままでいると
今度はそれが自責の方へ向かい、更に自分を苦しめるような思考に陥いることがあります。


この解決の糸口としては、
子供の頃に、どのくらい両親から
自分の存在や感情を受容されてきたか、ということを振り返ってみる必要があると思います。

一見は目の前の他者の言動によって傷ついているようで
実は元々にある心の傷が刺激されている、という場合が多いからです。

またそのような場合には、自分自身に対する認知そのものに、歪みが生じていたりします。

例えば、幼少期に従順な子どもであった場合、 親の機嫌をとることによって自分の存在価値を感じると同時に

その心には、ありのままを受け入れてもらえない事に対する「怒り」が生まれます。

そして、その怒りが抑圧されたまま、本人も無意識のうちに「目の前の相手の機嫌には責任を持たなければならない」
「私の気持ちは受容してもらえない」というスキーマ(思い込み)を抱えて成長していくと、他者との関係において、適切な距離を保つことが難しくなります。

しかしながら、それはその人が幼少期に自分を守る為に身に着けた「認知の歪み」から生じていますから、その根本にある「怒り」の原因を見つめ直すことが重要なのだと思います。

このような事に気づくことが出来ると、他者との関係においても、自分にとって無理のない距離を見つけることが出来ます。

それは言い換えれば、「目の前の他者から承認されることを頑張り続けなければ、自分には価値が無い」という囚われから、自分を解放するということでないでしょうか。

不思議ですが、人は自分の心を深く理解できると、その分だけ安心する事が出来ます。

そして、幼い子供もそうであるように
心に「安心感」が育つ事で、私達は自分の可能性を信じて前進出来るのです。

もし今、心がひどく落ち込んでしまい、焦っている方が見えましたら、このような視点から自分の心を見つめてみてはいかがでしょうか。

私自身も疲れが溜まってくると、この視点を忘れて落ち込むことがありますが
じっと心に耳を澄ましていると、幼い頃の自分が抱えてきたものや、
「本当は自分を信頼したい」という、力強い思いがあることに気づきます。

気づくことが出来ると、人は真ん中に戻ることが出来ます。

しかしながら、自分の心を見つめるというのは1人では難しい時もあります。

その時は、あなたが信頼出来る人であったり、「この人なら」と思えるカウンセラーに、思いをじっくり聴いてもらうと良いのではないかと思います。

今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございました(^^)



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